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大学には入ったが、授業には出ず、軽音楽部の部室に入り浸る。
女子生徒が半数を占めるこの大学は、概して生徒がまじめで、みななかなか勉強家だった。時代は完全にバブルに突入し、世の中は浮かれてたらしい。
NTT株が売り出されたりして、高校の同級生で「株やってる」という男がいていろんなこと教えてくれるんだが、俺はまったく意味がわからず、およそバブルとは無縁のところにいた。
この当時は就職も引く手あまたで、もっと現実的に生きてれば俺んとこみたいなド三流大学でもなかなかいい口があったはずなんだが、俺ははなっから就職なんかする気がなかった。本気で「物書き」になるつもりだったのである。
大学で知り合った女がよせばいいのに演劇部で、一度見に来いという。
尼崎ピッコロシアターのせまいとこで、確か竹内銃一郎の「恋愛日記」だった。
世の中でこんなにつんまんねーものがあるんだろうかと思った。
あんまりつんまんねえと思い、他はどうだと思って、今度は学内で当時超人気劇団だった第三舞台の「朝日のような夕日をつれて」をやるというので見たが、もう、ほんとーにほんとにくっんだらねえと思った。
で、本物なら面白いんだろうと思い、近鉄小劇場に「天使は瞳を閉じて」を見に行ったが、もお、なんちゅうか、あほらしゅうて途中で帰ろうと思った。
人がいっぱい集まるとこに面白いもんはないと、その時、はじめて知った。
唯一、面白いと思ったのが、長谷川康夫が作・演出やってたCカンパニーの
芝居で、これも近鉄小劇場で見たのだが(そういえば、この時、今、劇団新感線のえらいさんのいのうえひでのりが劇場前でチラシ配ってたな)、この時出てた岡本麗、松金よね子、酒井敏也がはじめて舞台で「すごいな」と思った役者さんたちだった。
この頃には、すでに俺は吉本興業に出入りしてた。普通のバイトは協調性ないから続かないし、たまたま新聞告知にあった「吉本で新劇団結成・俳優、作家募集」の文字につられ、バイトのつもりで面接を受けたのだ。
新劇団というのは、吉本で明石家さんまのマネージャーを長く勤めた
T氏という社員の独断企画で、この人は京大出エリートなんである。で、京大時代、のちに劇団「そとばこまち」を作るメンバーと親交があり、やたら演劇好きだったらしい。世の中は小劇団ブームと言われてた頃で、T氏は吉本の中で
無謀にも独自の「小演劇」というフィールドを作ろうとしていたわけだ。
T氏からピーター・ブルックの「なにもない空間」を読めと言われて貸してもらったが、一度も読まずにどこかになくしてしまった。
作家のオーディションで芝居のシノプシス(粗筋)提出し、受かったら30万、その後は「作家」として採用と書いてあり、真に受けたのだが、
オーディションに合格後、茶封筒を受け取った。中には5万ぽっきり。
30万で釣って5万だよ。これがあの会社のやり口である。
しかも封筒に明細が入ってあって、「番組構成料」と書いてあった。要するに賞金ではなく、T氏が制作担当してたお笑い番組の構成台本料という形で支払われたというわけで、今まで隠してたが、初めて俺が金をもらったTV番組のタイトルは
「爆笑ホームラン」、である。
爆笑したあげくにホームランだよ。ははは。
もう、一生偉くなれないデビュー経歴だと思う。
「作家」として採用、というの要するに本当に旗揚げするのかよくわからない劇団(オーディション組略して”オ組”と呼ばれていた)の稽古に付き合い、T氏の子分扱いであれやこれやと雑用させられるだけ。ていのいい”ボーヤ”である。
当時、主流派のT氏と叩き上げのO氏(ダウンタウンの仕掛け人)とが激しい出世争いをしている時代で、”ボーヤ”の俺も否応なく会社内の派閥抗争も目の当たりにすることになる。およそアーティスティックな現場に立ち会うことはほとんどなく、
ただ言われるがままに吉本制作のTV番組の末端スタッフとしてタダ働きの毎日。
「NightinNight」、「素敵!Kei-Shu5」、「八方の爆笑オリンピック」・・・。
もう、なんちゅうか大阪ローカル!!!な、C級泡沫番組のオンパレードだ。
大学には行かず、バンドも中途半端。しかし毎日難波に通い、演芸場やスタジオの隅で、およそ人生の役には立たない、いろんな経験を無駄に積ませていただいた時期である。
だいたいTV業界で言うところの「作家」なんて、作家でもなんでもない。
タレントが喋りやすくするための資料を集めるリサーチ屋みたいなもんだ。
たとえば、「作家アシスタント」として番組に関わってた時の話だが、東京ドームが開場した時、初めてのプロ野球の試合があった直後にドーム事務所に電話をかけさせられた。「誰かホームランで天井にぶつけましたか・・・?」
下らないとかそんなこと言ってたら物が先に進まない、そういう仕事だ。
しかもたちの悪いことに、この業界は年功序列である。つまんねーやつでも長いこと居着いてたらなんとか納まるようにできてる。
まして関西の放送業界なんて箱庭みたいなもんで、作家なんて箱庭の雑草摘みである。
しかし東京では故景山民夫や高田文夫、秋本康がメディアで活躍、「放送・構成作家ブーム」なんて言われてた時代だ。今なら宮藤官九郎みたいな人たち。
ふと、俺もこのまま、くっだらねえ「構成作家(って肩書きに書いた名刺で、心斎橋で女ひっかけてる、一行も物なんか書かないやつが回りにいたんだよ)」なんちゅう小判鮫みたいな安いもんに成り下がるのか(下がるもくそもただの青ガキなんだけど)と思うと無性に怖くなり、さりとて人様に見せる文章や、まして「小説」なんか書くだけの文章力はない。
なんとなく「公募情報」なんて雑誌を読んで投稿してみようか、とか思いながら
もいざ書くとなると”てにをは”から一人称二人称の区別に悩んでこれっぽちも先に進まない。しかし、物を書いて吐き出したいという欲求は行き着いて「台本を書く」というところで折り合いをつけることになった。
結局、毛嫌いしていた「演劇」という場所に軟着陸したわけだ。
1989年、23歳で初めて書いた芝居の本が「HOLDMETIGHT〜抱きしめて、もっとつよく」。神戸・レストラン北野クラブ・ダンスホールにて上演。
90年。大学は結局たった1単位を落として留年。フランス人の教授は強烈に厳格で、「ノンはノン」の一言で済ませた。受験用の赤本も出てないこの大学は、しかし呑気に入学してきたやつに一切のおためごかしを許さない、そういう考えだった。
結局、1年休学し、俺はT氏の命令に従い「花と緑の博覧会(花博)」で、吉本が博報堂と組んで展開した外人ストリートパフォーマーによる屋外ショーのディレクターになり、難波と鶴見緑地を往復する毎日を過ごした。末期とはいえさすがにバブル、この時の給料袋は異常に膨らんだ厚いものだった。俺は、なぜかこの金でドイツに行こうと決めていた。しかし、やはりバブルの金はバブルで、秋にはすっかり消えてなくなった。
親父もバブルにのっけられ、いつの間にやら不動産に手を出した。やがて確実にはじけることなど考えもせず。つゆとも知らない俺は、家のことなど一切関知せず、ぼんやりと無駄に日をやり過ごしていた。
休学ののち、91年は顔見知りの若手芸人のイベントを手伝ったり、京都のケーブルテレビの構成をやったりしながら、たった一つの講義を受けに大学に通った。
俺はもう、たぶんこのまま芸人のマネージャーにでもなるんだろうと思いながら、気がついたら無事、卒業しなくちゃいけなくなった。
吉本興業は切れ者プロデューサー木村政雄が推進して大改革の時を迎え、
新喜劇を刷新する方向に走った。結果、俺がダラダラと在籍してた中途半端な「ユニット」はすべて企業論理で整理された。
俺に残された選択は「吉本新喜劇の作家になるか、それ以外か」のどちらか。
俺は迷わず「それ以外」を選択した。
そして、一切の属性を失った。
この頃・・・1986年、ビートたけし、フライデー殴り込み。チェルノブイリ
原発事故。1987年、朝日新聞阪神支局襲撃事件。ゴッホの
「ひまわり」五十八億円で日本人が落札。1988年、リクルート
事件。1989年、昭和天皇崩御。平成に改号。美空ひばり死去。
1990年、日本人初の宇宙飛行。秋篠宮結婚。
1991年、若貴人気で大相撲ブーム。湾岸戦争。
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