菱田信也 
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菱田信也

 

菱田信也の作られ方1966〜2004

  1966年(昭和41年5月13日)
 

神戸の洗濯屋の末っ子長男(姉2名)として呑気に生まれる。丙午。
洗濯屋といっても、神戸港に入港する外国船泊船員のリネン(枕カバーだのシーツだの)を専門に扱うクリーニング業である。
この商売をやってるのは当時、横浜に1軒とうちだけだとエラそうに教え込まれた。
時代は高度成長期、神戸港の繁栄華やかなりし時代。
なにより、港の実権は日本最大の組織暴力団山口組が完全に制圧していたわけで、当時港湾関係企業の総元締めは三代目組長・故田岡一雄氏である。
非常に熱っぽい、ダイナミックな状況下であった。
後年、「死んどる場合か」を書いたのも生まれた時代の神戸の空気が身体に染み込んでたからだと思う。
生まれたばかりの俺に向かって、父親は「おまえが生まれたのは13日の金曜日だ・・・。13日の金曜なんだぞ・・・」と吹き込み続けた。
母親は、枕元で幼児の俺に「おまえには女難の相があるらしいよ〜」と普通なら昔話のひとつも語って聞かせるだろうシュチュエーションで、囁き続けた。
これらが一体なにを意図した教育方針だったのかいまだ謎である。

ちなみに商売は完全独占企業なのでウハウハ状態。親父は30人の住み込み従業員を抱え、今の俺と同じ年頃でイギリスの高級車ローバーを乗り回してゴルフ三昧。
毎夜、神戸”北野クラブ”で高い酒と100万$の夜景を欲しいままにし、夏には有馬温泉に長逗留して温泉から三宮の会社に出勤してた。しかもなぜか若柳流日舞の名取りだった。
なんせ神戸港開港以来100年の老舗である。創業者のじいさんは毎朝、福原の遊郭から出社したという伝説を持つ明治男だ。
ついでに言うと、母親は大阪・船場のでかい文具問屋のこいさんだった。
要するに俺は元々おぼっちゃまなんである。
ここはぜひとも強調しておきたい。

この年・・・3月、日本の総人口一億人突破。5月、ザ・ビートルズ来日。
TV「ウルトラマン」放映スタート。

  1971年(昭和46年)
 

神戸市立あけの星幼稚園入園。2年保育である。当時は円谷プロの特撮ヒーローとか怪獣ブームで、ガキはみんな怪獣のソフトビニール人形を競って親に買ってもらってた。幼稚園には「怪獣博士」だの「怪獣先生」だの「怪獣教授」だのと恥ずかしげもなく、勝手に自称する怪獣マニアのガキが跋扈していた。ちなみに俺は「ミスター怪獣」である。怪獣の鳴き声真似では右に出る者、なし。
園内の女児による「にんきとうひょう」では常にトップをキープ。
教師でもある、神に仕える若いシスター(カトリック系の幼稚園だったので。13日の金曜生まれなのによく入れてくれたもんだ)から禁断の愛を告白されたのも甘酸っぱい思い出だ。
この頃、山のように親に買わせた(金持ちの息子だったんで)ソフビ人形の山は後年、学生貧乏に陥った二十歳過ぎの俺をしばしば救済してくれることとなる。元町の中古玩具屋に売りに行った(ブルマーク製の人形は高値だった)のである。
幼稚園のお遊戯会「みんなのげき」で生涯初舞台。役名は「地中に埋まったおおかぶら」である。その見事な演技と重厚なる存在感は、幼稚園のシスターたちから「ザビエル様以来の輝き」と謡われる。この時、「舞台袖」の匂いに魅了され、齢4歳にして奇妙な興奮を覚える。
興奮といえば、この幼稚園には聖堂があり、毎朝そこで「マリア様〜〜〜マリア様〜〜〜〜」と歌わせられてたのだが、聖堂の厳粛な空気とパイプオルガンの調べが俺の五感に与えた影響は大きい。
ちなみにこの聖堂も幼稚園も阪神大震災で倒壊し、今はない。

この頃・・・1968年、三億円事件。1969年、東大安田講堂事件、
アポロ11号、月面着陸。1970年、三島由紀夫、自殺。
1971年、日本赤軍浅間山荘事件。

  1973年(昭和48年)〜1978年(昭和53年)
 

私立北野小学校入学。で、俺が小学生になった途端、9つ上の長女が宝塚歌劇団に入団。時代は第一次「ベルバラ」ブームのまっただ中である。
俺はほとんど毎週、宝塚大劇場に連れて行かれ、とにかく「ベルバラ」漬けだった。
当時のトップスター、安奈淳のオスカルが舞台下手から出て来た時
(舞踏会に貴婦人のドレス姿で出向くシーン)、6つか7つの俺は雷に打たれたような衝撃を受けた。こんな綺麗な人間がこの世にいるのかと思った。これが最初の演劇体験である。
この頃のトップスター鳳蘭から始まり、のちの汀夏子・麻美れい、あたりまでの舞台は、ほとんど劇場で見ている。長女の付き合いもあったのか、他の商業舞台やらミュージカルやらにも多く連れて行かれた。
菊田一夫の「がめつい奴」の舞台なんかも梅田コマ劇場で見たはずだ。
親の趣味か、週に1度は必ず家族で映画館に行ってたし。今は舞台を見るのは年間多くて2〜3本。映画もほとんど見ない。反動だと思う。
長女は新人の頃、関西テレビの宝塚番組で「バンビーズ」というユニットに所属してて、毎週テレビに出ておった。うちはなんせ金持ちだったので、当時出だしのでっかい家庭用VTRを購入し、毎週録画してた。VHSでもベータでもない、業務用ビデオだよ。最大で60分しか録画できない、一台50万くらいするんだぜ。今、あんなのどこにもないだろ。
本当に金、あったんだよな。で、長女は長く雪組に在籍。高嶺ふぶきがトップの時代に組長を勤め、今も現役で専科にいる。
この長女から、ブラブラしてた浪人時代に呼びつけられ、なぜか突然、オンシアター自由劇場の「上海バンスキング」を見に連れていかれた。
80年代小演劇の最高傑作である(斉藤憐・作。岸田戯曲賞受賞作品。主演は当然、吉田日出子)、この舞台を見たことが芝居の道に入った、そもそものきっかけだったかも知れない。

小学校2年の時の担任の泉本先生が、俺の作文が面白いと言い出し、ある時、書いた作文を校内のでかい黒板で公表した。以来、「菱田には文才がある」というのが定説となり、俺もその気になってしまった。
これが、以後30年にもおよぶ苦難の道の幕開けだった。教育者の皆さん。
気軽に子供をヨイショしないでいただきたい。一生の問題だよ。
その気になった俺はクラスで定期的に開催される「お楽しみ会」というイベントで「そうさく劇」を発表し、市の作文コンクールでは賞を取り、まさに文化人小学生の名声を欲しいままにした。金持ち息子ででっぷり肥満体、梅宮漬物たっちゃんを彷彿とさせる、風格漂わせた売れっ子の俺は校内を肩で風切って歩いてた。そりゃもう、多くの女子をひいひい泣かせまくったのだ。
「ミスター怪獣」以来、人生の第二期黄金時代の到来である。
この頃、イギリスBBC制作の伝説のギャグ番組「モンティパイソン」が日本でも放映され、俺はガキのくせに自分を「パイソニアン(マニアの総称)」と呼び、番組をでかいビデオで録画するくらいのファンだった。「モンティ〜」はのちの「俺たち
ひょうきん族」のモデルになった。よく小演劇のギャグ系の人もこの番組に「影響された」と言うし、実際、この番組は各方面のアーティストに多大なインスパイアを与えた。・・・けど、本当は日本版の声優のアドリブが面白かったからで、今、
ビデオでBBC版のを見てもさほど面白いと思わないよな。
俺は同時に、藤山寛美の「松竹新喜劇」も好きで土曜の午後のTVをよく見てた。
考えたらいやなガキだ。

金持ちの女房でブランド志向の母親は、俺を私立の中学に行かせるべく、早くから家庭教師を付けた。小5の時にやってきた家庭教師は、俺の学校の担任から紹介された女性教師だった。すげえのは、なんとその教師は現役の小学校教師だったのだ。
これは当時社会問題にもなり、教育委員会にでもばれたらえらいこっちゃな話だったのである。で、もっとすげえことに、その二人は愛人同士だったのだ。まじっすか!!!ええ、まじっす。
W不倫してる聖職者が、生徒の中学受験のために、自分の愛人のアルバイトを斡旋してたわけだ。
これはのちに判明したというのではなく、なんと俺はその事実を母親からオンタイムで随時聞かされていた。「そやからな、誰にも言うたらあかんで」って、意味不明。
しかも母親は、その担任が入院した病院で愛人教師と担任の奥さんが鉢合わせ、病室の前で壮絶な状態になったという噂をどこからか仕入れてきて、小学生の俺に身振り手振り、見てきたみたいな浜村淳、喜々とした調子で話して聞かせた。
俺は37になった今でも、自分がちゃんと大人になったという実感がない。
「大人」っつーのは愚かで、だけどいろいろ大変なんだという思いを、親からガキの時に徹底的に植え付けられたからだと思う。俺は根性ないからそこまで行けないよ。
が、「物語」を作る商売についた今、それに耐えうる感性を育ててくれたという意味で親には感謝している。
すったもんだで、中学受験には見事、失敗した。

この頃・・・1973年、金大中事件。1974年、フィリピンで小野田元日本軍少尉発見。長島茂雄、引退。田中角栄内閣総辞職。1976年、ロッキード事件。
角栄逮捕。1977年、青酸コーラ事件。日劇ミュージックホール閉館。
1978年、キャンディーズ解散。王貞治、ホームラン世界記録。

  1979年(昭和54年)〜1985年(昭和60年)
 

市立生田中学校。
私立滝川高校。そして浪人。
なんちゅうか、人生の華を一切なくした時代の到来である。
中学時代、80年に映画「ブルースブラザーズ」が来た。この映画を見てブルースおよびバンド、そして映画に進路を見いだそうという無謀な夢を抱く。
が、不思議なことにこれっぽっちも「演劇」を選択しようだなんて思わなかった。
(だって気色悪いもの、高校演劇とか。もう、それだけは勘弁してくれって思ってた。
今でも高校演劇上がりは大学演劇上がりよりも嫌いだ。16,7で他にやることなかったんか。ありゃNHKの”青年の主張”と同じだ。今なら”しゃべり場”か。
とにかく、現実的でモテるやつは絶対、行かない世界だと思うよ、うん。もお、差し障りありまくりだけどさ。本当に本気で嫌い。)
神戸市は当時、中坊はみな強制的に丸刈りで、その反動か高校ではパンクファッションに傾倒。性格もパンクで、ささいなことで人を殴る人間になった。
一方で、不機嫌そうな顔つきでカントの「哲学入門」を読み、まるっきし理解できないことにイライラして、また暴れた。しかし、喫茶店ひとつ一人で入る勇気はなく、「俺はヤンキーでもサーファーでもねえ」と自分を納得させながら、今度は太宰だ三島だと読んでるポーズをする。丸出しあほ。ヤンキーや陸サーファーの方が明るかったよ。
すぐ上の姉は私立の女子校でウラ番(いけないことだ)張りながらなぜか芸能界志向で、アイドルオーディションを山ほど受けに行ってた。堀プロのスカウトキャラバンで準決勝まで進み、そこでのちのB級アイドル・比企理恵に負けた。
親父は金持ち。お袋は買い物三昧。長女は宝塚で次女はタレント志望で末っ子はパンク。
80年代初頭の一家族のありがちな風景である。
時代はいろいろありながらこのままバブルに突き進む。そして、この一家族も深い暗雲の中に突き進む。この頃はまだ、それに誰も気付いてない。

この頃いつもそばにあったもの。角川映画(真剣に大林宣彦監督に弟子入りしようとしてた。)古典洋画、ビートたけしのオールナイトニッポン。RCサクセション。
R&B。ロック。ヘビメタ。ジャズ。義務的カッコ付けに読みあさる純文学小説と哲学書。今の経済誌とは違うアバンギャルド系サブカル雑誌だった「宝島」。
学祭でバンド組み、男ばっかりの前で暴れながら歌ったりしてた。俺は音楽やって、映画もやって、そのうち小説家になるのだと思っていた(あの
当時、そういうとぼけた考えのやつって結構、多かったと思う)。

でも芝居には一切、興味なかった。たまに読むのはつかこうへいの小説だけ。
この当時、つかこうへいは一切の演劇活動を休止していた。
80年代中頃、京大の浅田彰がスキゾだパラノだと言い出し、そのわかるようなわかんないような理屈で皆なんとなく納得してる、あからさまに中途半端な時代だった。

本当に本当に3年間、女っけ一切なしで高校を卒業。今で言う、引きこもりの時代を1年過ごし、「誰でも入れます」が売り文句だった英知大学仏文科に入学。「でも、簡単に出れませんけど」という厳格な校風を知ったのは入学後だった。

この頃・・・1979年、江川卓、「空白の一日」で巨人入り。インベーダー
ゲーム。渋谷109オープン。1980年、花柳幻舟家元襲撃事件。
東京で一億円の落とし物。王貞治、山口百恵、現役引退。
1981年、江東区で川俣郡司通り魔事件。1982年、ホテル
ニュージャパン火災。1983年、おしんブーム。ディズニーランド
オープン。1984年、三浦和義疑惑の銃弾。グリコ・森永事件。
1985年、阪神タイガース日本一。日航ジャンボ機墜落。日本で初のエイズ。

  1986年(昭和61年)〜1991年(平成3年)
 

大学には入ったが、授業には出ず、軽音楽部の部室に入り浸る。
女子生徒が半数を占めるこの大学は、概して生徒がまじめで、みななかなか勉強家だった。時代は完全にバブルに突入し、世の中は浮かれてたらしい。
NTT株が売り出されたりして、高校の同級生で「株やってる」という男がいていろんなこと教えてくれるんだが、俺はまったく意味がわからず、およそバブルとは無縁のところにいた。
この当時は就職も引く手あまたで、もっと現実的に生きてれば俺んとこみたいなド三流大学でもなかなかいい口があったはずなんだが、俺ははなっから就職なんかする気がなかった。本気で「物書き」になるつもりだったのである。

大学で知り合った女がよせばいいのに演劇部で、一度見に来いという。
尼崎ピッコロシアターのせまいとこで、確か竹内銃一郎の「恋愛日記」だった。
世の中でこんなにつんまんねーものがあるんだろうかと思った。
あんまりつんまんねえと思い、他はどうだと思って、今度は学内で当時超人気劇団だった第三舞台の「朝日のような夕日をつれて」をやるというので見たが、もう、ほんとーにほんとにくっんだらねえと思った。
で、本物なら面白いんだろうと思い、近鉄小劇場に「天使は瞳を閉じて」を見に行ったが、もお、なんちゅうか、あほらしゅうて途中で帰ろうと思った。
人がいっぱい集まるとこに面白いもんはないと、その時、はじめて知った。

唯一、面白いと思ったのが、長谷川康夫が作・演出やってたCカンパニーの
芝居で、これも近鉄小劇場で見たのだが(そういえば、この時、今、劇団新感線のえらいさんのいのうえひでのりが劇場前でチラシ配ってたな)、この時出てた岡本麗、松金よね子、酒井敏也がはじめて舞台で「すごいな」と思った役者さんたちだった。

この頃には、すでに俺は吉本興業に出入りしてた。普通のバイトは協調性ないから続かないし、たまたま新聞告知にあった「吉本で新劇団結成・俳優、作家募集」の文字につられ、バイトのつもりで面接を受けたのだ。
新劇団というのは、吉本で明石家さんまのマネージャーを長く勤めた
T氏という社員の独断企画で、この人は京大出エリートなんである。で、京大時代、のちに劇団「そとばこまち」を作るメンバーと親交があり、やたら演劇好きだったらしい。世の中は小劇団ブームと言われてた頃で、T氏は吉本の中で
無謀にも独自の「小演劇」というフィールドを作ろうとしていたわけだ。
T氏からピーター・ブルックの「なにもない空間」を読めと言われて貸してもらったが、一度も読まずにどこかになくしてしまった。
作家のオーディションで芝居のシノプシス(粗筋)提出し、受かったら30万、その後は「作家」として採用と書いてあり、真に受けたのだが、
オーディションに合格後、茶封筒を受け取った。中には5万ぽっきり。
30万で釣って5万だよ。これがあの会社のやり口である。
しかも封筒に明細が入ってあって、「番組構成料」と書いてあった。要するに賞金ではなく、T氏が制作担当してたお笑い番組の構成台本料という形で支払われたというわけで、今まで隠してたが、初めて俺が金をもらったTV番組のタイトルは
「爆笑ホームラン」、である。
爆笑したあげくにホームランだよ。ははは。
もう、一生偉くなれないデビュー経歴だと思う。

「作家」として採用、というの要するに本当に旗揚げするのかよくわからない劇団(オーディション組略して”オ組”と呼ばれていた)の稽古に付き合い、T氏の子分扱いであれやこれやと雑用させられるだけ。ていのいい”ボーヤ”である。
当時、主流派のT氏と叩き上げのO氏(ダウンタウンの仕掛け人)とが激しい出世争いをしている時代で、”ボーヤ”の俺も否応なく会社内の派閥抗争も目の当たりにすることになる。およそアーティスティックな現場に立ち会うことはほとんどなく、
ただ言われるがままに吉本制作のTV番組の末端スタッフとしてタダ働きの毎日。
「NightinNight」、「素敵!Kei-Shu5」、「八方の爆笑オリンピック」・・・。
もう、なんちゅうか大阪ローカル!!!な、C級泡沫番組のオンパレードだ。
大学には行かず、バンドも中途半端。しかし毎日難波に通い、演芸場やスタジオの隅で、およそ人生の役には立たない、いろんな経験を無駄に積ませていただいた時期である。

だいたいTV業界で言うところの「作家」なんて、作家でもなんでもない。
タレントが喋りやすくするための資料を集めるリサーチ屋みたいなもんだ。
たとえば、「作家アシスタント」として番組に関わってた時の話だが、東京ドームが開場した時、初めてのプロ野球の試合があった直後にドーム事務所に電話をかけさせられた。「誰かホームランで天井にぶつけましたか・・・?」
下らないとかそんなこと言ってたら物が先に進まない、そういう仕事だ。
しかもたちの悪いことに、この業界は年功序列である。つまんねーやつでも長いこと居着いてたらなんとか納まるようにできてる。
まして関西の放送業界なんて箱庭みたいなもんで、作家なんて箱庭の雑草摘みである。

しかし東京では故景山民夫や高田文夫、秋本康がメディアで活躍、「放送・構成作家ブーム」なんて言われてた時代だ。今なら宮藤官九郎みたいな人たち。
ふと、俺もこのまま、くっだらねえ「構成作家(って肩書きに書いた名刺で、心斎橋で女ひっかけてる、一行も物なんか書かないやつが回りにいたんだよ)」なんちゅう小判鮫みたいな安いもんに成り下がるのか(下がるもくそもただの青ガキなんだけど)と思うと無性に怖くなり、さりとて人様に見せる文章や、まして「小説」なんか書くだけの文章力はない。
なんとなく「公募情報」なんて雑誌を読んで投稿してみようか、とか思いながら
もいざ書くとなると”てにをは”から一人称二人称の区別に悩んでこれっぽちも先に進まない。しかし、物を書いて吐き出したいという欲求は行き着いて「台本を書く」というところで折り合いをつけることになった。
結局、毛嫌いしていた「演劇」という場所に軟着陸したわけだ。

1989年、23歳で初めて書いた芝居の本が「HOLDMETIGHT〜抱きしめて、もっとつよく」。神戸・レストラン北野クラブ・ダンスホールにて上演。

90年。大学は結局たった1単位を落として留年。フランス人の教授は強烈に厳格で、「ノンはノン」の一言で済ませた。受験用の赤本も出てないこの大学は、しかし呑気に入学してきたやつに一切のおためごかしを許さない、そういう考えだった。
結局、1年休学し、俺はT氏の命令に従い「花と緑の博覧会(花博)」で、吉本が博報堂と組んで展開した外人ストリートパフォーマーによる屋外ショーのディレクターになり、難波と鶴見緑地を往復する毎日を過ごした。末期とはいえさすがにバブル、この時の給料袋は異常に膨らんだ厚いものだった。俺は、なぜかこの金でドイツに行こうと決めていた。しかし、やはりバブルの金はバブルで、秋にはすっかり消えてなくなった。
親父もバブルにのっけられ、いつの間にやら不動産に手を出した。やがて確実にはじけることなど考えもせず。つゆとも知らない俺は、家のことなど一切関知せず、ぼんやりと無駄に日をやり過ごしていた。

休学ののち、91年は顔見知りの若手芸人のイベントを手伝ったり、京都のケーブルテレビの構成をやったりしながら、たった一つの講義を受けに大学に通った。
俺はもう、たぶんこのまま芸人のマネージャーにでもなるんだろうと思いながら、気がついたら無事、卒業しなくちゃいけなくなった。
吉本興業は切れ者プロデューサー木村政雄が推進して大改革の時を迎え、
新喜劇を刷新する方向に走った。結果、俺がダラダラと在籍してた中途半端な「ユニット」はすべて企業論理で整理された。
俺に残された選択は「吉本新喜劇の作家になるか、それ以外か」のどちらか。
俺は迷わず「それ以外」を選択した。
そして、一切の属性を失った。

この頃・・・1986年、ビートたけし、フライデー殴り込み。チェルノブイリ
原発事故。1987年、朝日新聞阪神支局襲撃事件。ゴッホの
「ひまわり」五十八億円で日本人が落札。1988年、リクルート
事件。1989年、昭和天皇崩御。平成に改号。美空ひばり死去。
1990年、日本人初の宇宙飛行。秋篠宮結婚。
1991年、若貴人気で大相撲ブーム。湾岸戦争。

  1992年(平成4年)〜1993年(平成5年)
 

92年、ブラブラしてるところに芝居の作・演出の話が来た。
落ちぶれたある能のないお笑い芸人が起死回生で「芝居をやる」と言い出し(ハッキリ言うが、漫才師が芝居やり出すと、もうアウトである。本業が行き詰まったらら必ず”芝居を〜”と言い出す。本業の面白いやつが芝居なんかに手は出さない。)、お互いつき合いのあった若手を通じての依頼だった。
劇場は近鉄小劇場。俺は、好き勝手していいならという条件で、受けた。

1992年、「ブラッディマリーをあなたに」
1993年、「BURNWITHTHEWIND」
共に、近鉄小劇場にて。両作ともくっだらねえ失敗作。

この頃、二つ年下の女性と付き合った。
若気の至りっちゃあそれまでだが、俺は結婚を考えた。
しかし、彼女は「無理だと思う」と言う。
大阪の一地方都市にある彼女の自宅の周辺は、奇妙なところだった。
必然性のない大きな公園。入り組んだ迷路みたいな車道にあふれる違法駐車。
無機質に立ち並ぶ共同住宅の固まり。集会所のような場所に、「差別撤廃」という立て看板がこれでもかと並んでいる。
そこが、特別な政策で整備された空間だということに気付いた時、愕然となった。
人間はただ人間であるということの約束が、人が人を好きになり、結ばれたいと思う単純さが、この世の中で厳然と成立できない事実があるんだということ。
二十いくつにもなってそれを初めて知った悔恨は、その奇妙な場所で俺を立ち尽くさせた。
自分の生まれたこの国が、ひとつの不自然な構造を明らかに持っているんだという現実が、そこにハッキリと屹立していた。そしてそれは、どうしようもない自分の無自覚さを思い知らされるには十分な破壊力を持っていた。

そんなものはどこにもないんだ、しっかりするんだ。安心しよう、ちゃんと進もう。
何度も何度も、俺は彼女に言い続けた。自分にも、必死で言い聞かせた。
けれど彼女は、ただじっと黙りこむだけだった。

結局、おまえがその「現実」というものにハッキリと抗ったのかと問われたら、残念ながら答えることができない。その日から12年経つが、彼女は俺の見えるところには今、立ってはいないからである。
もしも、もしも、いつか自分がこの時の思いを明瞭な伝え方で映し出すことができる十分な力を持てたなら、きっと、ちゃんとした形にしたいと思う。
そして今、なぜ芝居をするのですかと聞かれたら、ひとつだけ答える。
「私はかつて、好きになった女一人、現実から連れ出せなかったからです」。
最低な敗北の意味をちゃんと書き出せるようになるまで、芝居を続けようと思う。

今でも、芝居から逃げたいと思う時、ただ立ち尽くしてたあの場所の空気を必死で想い出そうとしています。そのおかげで何度も、逃げ切ることなく戻ってこれました。
元気ですか。少なくとも、幸せに過ごしていますか。
あなたのおかげで、僕は僕にふさわしい生き方をさせてもらっています。
伝えることはできませんが、今もあなたに、感謝しています。

この頃・・・1992年、きんさんぎんさん国民的人気。バルセロナ五輪で水泳の岩崎恭子(14)が金メダル。
1993年、皇太子結婚。Jリーグ誕生。

  1994年(平成6年)〜2003年(平成15年)
 

気がついたら、27歳。俺は、三宮のキャバクラで呼び込みのバイトをしていた。店の雇われチーフはなぜかタイ人で、俺はおねえちゃんに頼まれてパンストをローソンに買いに行く日々を過ごしていた。
店に来る客が、なんでこんなことで金を使うのかまるっきりわからないと言うと、タイ人のチーフは「みな、あほやからな」と大阪弁で吐き捨てた。
俺は、その「みな」というのが「日本人」ということなんだろうなと感じた。
けいちゃんという名のホステスは、なんだかやる気があるのかないのかわからない子で、指名がかからない時はずっと厨房の隅で黙ってタバコを吸っていた。
店に呼ばれて笑顔で客の横に座るけいちゃんはちっとも綺麗だとは思わなかったが、厨房の隅でぼんやりタバコを吹かしている彼女の、少し長めの足が見えた時、なんとなく胸がざわついた。
給料は当たり前に遅配だと聞き、俺は一月でそこをやめた。
働いた分は確実に払ってくれとオーナーに直談判し、一月分の金を受け取った夜、俺は客として店に入った。タイ人のチーフは、少し笑いながら「いらっしゃいませ」と言った。
俺は、けいちゃんを指名した。
店がはねた後、タクシーに乗って、けいちゃんを送っていった。
本当は、そのまま、稼いだ金を全部渡してでもけいちゃんと寝たかった。
でも、俺になにかを言わせる隙も見せず、けいちゃんは「バイバイ」と、笑いもなく、すり抜けるみたいにタクシーから降りていった。
町の工場が立ち並ぶなんだか暗い場所の奥に消えていくけいちゃんをぼんやりと見ながら、俺は、そろそろなにか終わるんだ、と感じながら、タクの運ちゃんに声をかけられるまで、ボーッとしていた。

その年の春、俺は食うために、劇団を作った。
芝居というものを、ただ生きていく手段にするために使う。
俺が仕組んだ策は、世間に向けて弾丸を撃つということだった。

俺はちっとも知らなかったが、この頃、親父はバブルの、怒濤のようなつけを払わねばならないという現実に直面し、昔はあれだけフル稼働だった洗濯屋のボイラーも、冷え切ったまま日を過ごすことが多くなっていた。

作った劇団は狙い通りに当たり、マスコミの取材が殺到し、銀行から融資を申し出てくるほどだった。
金が入りだし、女は入れ替わり立ち替わり。
新聞に雑誌にテレビにラジオ。公立の劇場の制作者が、本当はなにも持ってない俺に巨額の予算で芝居を打つよう申し出てくる。
もうすぐ爆発するぞ、みんな破裂して、すべてが消えるぞ。
そんな声は確かに聞こえていた。けれど、俺はとことん、やりたい放題の日々だった。

  1995年1月17日、阪神大震災。
 

ここからのおよそ5年については、まだなにか書いて残すというほど伝達力がないので、もう少ししたら書いてみようと思う。
だけど、ほんとーにほんとーにダイナミックで面白い5年だった。

で、・・・これ以前も以降も、俺が書いた芝居で、「俺が書いた」と人様に言えるのは今から上げる子たちだけである。それ以外は、金欲しさと惰性で書いた(細かいのまで全部あげたらたぶん4〜50本くらいになる)。
ハッキリ、ここに記す。

96年「いつも煙が目にしみる」(01年、近松門左衛門賞優秀賞受賞)
97年「グランド・ロマン」(99年、第9回上岡演劇祭脚本奨励賞受賞)
97年「パパと呼ばないで(初演は94年)」
97年「死んどる場合か」
98年「大物の肩」
98年「かくも長き実在(02年、「ロング・グッバイ」と改題)」
98年「そしてふねはゆく」
98年「成金雨」
98年「荒んだ生活」
98年「闇王退場」
99年「ラストダンスはどなたに」
00年「どうしてこんなに心がときめかないの」
01年「涙形」
02年「BIZZ」
03年「センセとおしえご」「エスコッチュ」

  2004年(平成16年)
 

そんなわけで、今年5月におめでとーで38歳。
プロの書き手として劇場デビューしたのが90年なんで、キャリア14年。
震災後の97年に7歳上のジャズダンス振り付け師と結婚。
同年生まれたお子さまは今年小学生。
ほとんど別居中。

金持ちだった実家の家業はただいま負債4億円。
俺個人の、この10年で作った演劇借金1000万。
長女はいまだに宝塚在籍。次女は00年に交通事故で一時危篤。今は勤め人。

持病は先天性のアトピー。こいつのおかげで97年に入院経験あり。
高校以来の腰痛は冬になると暴れ出す。が、それ以外は実に健康。
成人病とは無縁。酒は飲まない。金は女にだけ使う。

2004年1月現在、おかげさまで6本の脚本作業に追われつつ、
小商いの地方公演と、講演と、なんやかんやとやって小銭稼いでる。
だけどもうそろそろ、ちゃんとした新作を一本、作らないとやばい。
来年末に、「いつも煙が目にしみる」を改題して上演予定。それまではもう少しいろんなことをやっとこうと思ってる。

2004年春、菱田信也事務所、設立。
在籍者、たぶん一生、俺一人。

(本文中:敬称略)

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